リレーエッセイ

2017.04.27

第1回:医学と工学の狭間に(山下明泰・法政大学)

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作者プロフィール
氏名:山下明泰
所属:法政大学生命科学部環境応用学科
役職:教授、第55回日本人工臓器学会大会 大会長

はじめに

情報広報委員会から、本リレーエッセイの初回を担当するようにご依頼いただいた。同委員会は、小職が理事を務めた7年間、委員長を拝命し、ホームページの大改訂をさせていただいた思い入れの強い委員会である。小職が退いた後に、より積極的な活動が行われていることは、たいへん頼もしい限りであり、今後も発展を期待する思いで、ご依頼をお引き受けすることとした。とはいえ、不特定の読者を想定して「興味を持ってくれそうなこと」を探しながら、文章をしたためるのは、浅学菲才の身の上には至難の業である。そこでここでは、人工臓器と我が半生を語ることでその責をお許しいただきたい。

人工臓器との出会い

人工臓器の話を初めて聞いたのは、大学の1年生の夏(1976年7月頃)と記憶している。恩師の酒井清孝教授(現、早稲田大学名誉教授、第34回大会長)は1年生の必修科目「化学工学Ⅰ」で、短い時間ではあったがその解説をされた。その翌月、夏休みを利用して高校時代の同級生二人と、夜行列車で九州の旅へ出かけたが、その際に「将来は人工臓器の研究をしたい」と熱く語ったのを覚えている。その2年後(1978年)には、東京女子医大の和田寿郎教授が第16回大会を早稲田大学理工学部で開催された。また翌1979年3月には、首尾よく酒井研究室に配属されて、体外循環に伴う溶血現象をテーマに卒業研究に取り組んだ。同じ実験室で一緒に実験をすることなったのは、1年生の時から同じクラスだった「松田君」(現、山梨大学救急集中治療医学講座・教授、日本人工臓器学会前理事長)、そして、研究に、宴会にお世話いただいたのは「峰島先輩」(現、東京女子医科大学臨床工学科・教授、第43回大会長)、「竹澤先輩」(現、九州保健福祉大学臨床工学科・教授)であった。そのほか、多くの先輩、同輩、後輩が後に、大学あるいは人工臓器関連企業の第一線で活躍することになる。当時は感じていなかったが、今から思えば、実に恵まれた環境で研究をスタートすることができたのである。

学位取得と教員への道

主に経済的な理由で大学院進学を断念した小職が、酒井先生の特別のご配慮で選んだ進路は、民間病院の研究部であった。その立ち上げには、北里大学の酒井糾助教授(当時、日本人臓器学会会員番号1番)も関わっておられ、院内では常に特別の計らいをいただいたと理解している。仕事の内容は主に人工腎臓の基礎研究と臨床的評価であった。現在では人工腎臓の臨床的評価指標として標準的に用いられている「クリアスペース」の概念を提唱したのもこの頃(1981年)のことである。現在は臨床研究を離れた小職が、これを使うことは滅多にないが、未だにお問い合わせを頂くことは少なくない。嬉しいのと同時に、研究に進歩がないことを指摘されているような複雑な思いになることもある。
ある日、病院の理事長(善本勝男先生、医療法人善仁会)から呼び出しを受けた。恐る恐る面談室に入ると「良くやっているようだ。半年から1年くらい留学してはどうだ。医者の私には工学系の留学先はわからないので、行先は恩師と相談して決めなさい。」という。この瞬間ほど嬉しかったことはない。何よりも、病院内で唯一お金を使うことしかやっていない小職の仕事を「良くやっている」と評価していただいたことが嬉しかった。早速、酒井教授にこのことをお話しすると、「良かったじゃないか。但し、1年では何もできない。この際、学位を取りに行ってはどうだ。」とアドバイス頂いた。もちろん小職の心の奥底にも同じ解は存在していた。しかし理事長から「1年以内」といわれた以上、それを逸脱する選択を自ら口にする勇気はなかった。再び、理事長室に入室した小職は、「米国の大学院で学位を取得して来ます」といっていた。
理事長、本院の院長(日台英雄先生、横浜第一病院)の格別の計らいのもと、テキサス大学オースチン校大学院へ進学した小職は、連続携行式腹膜透析(CAPD)を発明した化学工学科のPopovich教授、内科医のMoncrief先生のご指導の下、犬の腹膜透析をin situ、in vivoで行い、そのデータを当時世界最速のスーパーコンピュータCRAYで解析する日々に明け暮れた。動物実験室が使用できるのは、夕方5時から翌朝5時までの12時間――明け方に実験室を出た後、検査センターへ検体の分析を依頼し、そこで受け取ったデータを持って、今度はコンピュータセンターへと急いだ。当時の小職はベッドで寝たことは一日もなかった。
テキサス大学ではPopovich教授が担当されていた学部の必修科目の補助教員を行った。これにもいろいろなランクがあった。2年目以降は、100分の演習講義を週に1回(または2回)、年間を通して行った。これで大学院の授業料が免除された上に、健康保険もカバーされ、月々の生活費程度の手取りは十分にあった。中でも嬉しかったのは、最初は練習問題の解き方を教えるだけであったのが、次第に学生たちが個人的な悩み事を相談しに来てくれたことである。「自分は得意な問題の解法を教えているだけ」と思っていた小職にとって、この信頼関係は何物にも代えがたいものに思えた。「将来、教職に就こう」と思ったのはこの瞬間だったように思う。ともあれ、4年10か月の歳月は一陣の風のごとく過ぎ去り、学位取得後ただちに帰国の途に着いた。

教育・研究は天職か?

帰国後、九州工業大学情報工学部(飯塚キャンパス)に助手として赴任した。研究室を主宰されていた東條角治教授もRutgers大学から戻られたばかりで、研究室はアメリカ的な雰囲気でとてもやりやすかった。この時期は、人工腎臓・膜型人工肺のテーマの他に、研究室のメインテーマであったドラッグデリバリーシステムの研究を行い、人工臓器学会で発表したこともある。
7年半を飯塚ですごしたのち、1999年から14年間、湘南工科大学で教鞭をとった。主として旧教養教室の化学系教員(助教授)を主な業務としていたため、専門学科の教員が受け持つ卒業研究生の半数を受け入れた。これが、「狭き門」効果(?)を生んだのか、成績優秀の学生間で「山下研は入るのが難しい」といわれるようになるのだから、何が幸いするかわからない。2003年に第9回日本HDF研究会、2006年に日本腹膜透析研究会をお世話させていただいたこと、2004年に教授就任と同時に研究室のOB・OG会が設立されたこと、博士後期課程の女子学生の主査を務めたことも、良い思い出である。最後には4年間にわたって、専門学科の学科長まで拝命した。旧教養系教員の歩んだ道としては異例のことだったと思う。
2013年に法政大学(現職)へ移籍した。藤沢市から東京の実家への引っ越し、子供の転校など、僅かな時間ですべてを決められたのは、家内の協力が大きかった。OB・OG会は2年に1回定期的に開催されている。研究室所属の学生は、現在は毎年20名弱であるが、毎年の忘年会にはOB・OGが貰ったばかりのボーナスを握りしめ、30名近く集まるため、全部で50名近い大宴会となるのも楽しい。「教職を天職」と感じられるのは「宴会」、否、卒業生が成長した姿を見せに帰ってきてくれるときである。

おわりに

思えば、流れに身を任せるように、医学と工学の狭間で40年間人工臓器関連の研究を行ってきた。酒井先生を始め数々の教えを頂いた恩師、諸先輩、同輩、後輩、そして教え子達に出会わなければ、現在の自分はなかった。第55回大会のお世話役として、同会を成功に導くことが、これまでお世話になった方々のご恩に報いることと心得、現在、鋭意準備に取り組んでいる。会員諸賢にはこれまで以上のご指導・ご鞭撻、並びにご協力をお願いして、筆を置くことにする。

次回のエッセイは、2017年9月頃を予定しております。

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